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二天一流の主な道統

武蔵の後継者たち

 宮本武蔵がその晩年を肥後(熊本)で過ごし、その地に「二天一流」を伝えたことは、広く知られているところです。武蔵は死に臨んで一番弟子の寺尾孫之丞勝信に「五輪書」を託し、二番弟子である弟の求馬之助信行には「兵法三十五箇条」と「独行道」を託して、二天一流の後継者の証としたと伝えられています。

 兄勝信は自らの子孫には道統を伝えず、実質的な相伝者の地位を弟信行に譲ったと言われていますが、勝信の高弟柴任三左衛門美矩が技量優秀なるを認めてこれに印可を授け、柴任は後に福岡黒田藩に仕官したことから、勝信の系統は福岡の地を中心に隆盛を極めました。

 一方の信行は、小倉にいた武蔵の養子宮本伊織に遠慮して、やはり二天一流の宗家を名乗らず、武蔵から譲られた流儀の書と大小の帯刀を伊織のもとに送り届けました。しかし伊織は「宮本家は継いでも流儀のことは信行殿にお任せします」と言って脇差を受け取ったのみで他は全て返却して来ました。

 そこで信行は武蔵の「なんじ男子あらば新免の名を継がせよ」という遺言に従って自分の息子たちに二天一流を厳しく仕込み、中でも特に天賦の才を示した四男の寺尾弁助に二天一流の奥義を全て伝授し、武蔵の跡を継がせて新免弁助信盛(森)と名乗らせ二天一流の二代目としました。このため熊本における二天一流の系譜上の第二代は信行ではなく弁助信盛とされています。

寺尾派(山尾派)

 新免弁助信盛は天性兵法に優れ「武蔵の再来」と言われるほどの器量を持っていましたが、残念ながら若くして世を去ってしまいました。そこで多くの門弟たちは流儀が断絶することを憂慮し、信盛の弟にあたる五男寺尾藤次玄高を擁立して二天一流の三代目に据えました。

 玄高は技こそ弁助に及ばなかったものの、父の信行から正伝を授かった人で八十二才で亡くなるまでよく門弟の指南に専心しました。

 この道統は、後の継承者山尾甚助の名を取って山尾派とも呼ばれて、維新後も二天一流の正伝を守り続けましたが、大正期に入って関孫之丞を最後に後継者を得られず断絶しました。


山東派

 玄高の弟で六男の寺尾郷右衛門勝行も父信行から正伝を授かり兄の玄高と共に教伝に努めました。勝行の流れは後に吉田喜右衛門(如雪)正弘から山東家三代に引き継がれたため「山東派」と呼ばれるようなります。

 山東家の後を引き継いだ青木規矩男氏は流儀中興の祖とも称された人で、熊本ばかりではなく他の地域にも足を運んで教え、多くの門弟を育てました。現在日本各地で伝えられている二天一流の多くが、青木氏の弟子筋であることが多いようです。

 山東派の正伝は青木氏の後、清長忠直氏を経て今井正之氏、岩見利男氏へと引き次がれ、「兵法二天一流剣術」として日本古武道協会の認定を受け、これに加盟しています。

 山東派は、寺尾勝行以降の代々の継承者によって付け加えられた一刀や小太刀、棒術の形なども伝えるほか、青木氏の代には「五方ノ形」を新たに見直すなど、独自の伝承をしているところに特徴があります。

 しかし、江戸期以来の竹刀による稽古法は現代に伝わっておらず、現在はこれらの形様式を勢法と称して修練し、古流剣術の伝統様式を保存する形武道としての道を歩んでいます。

村上派(正勝系/正之系)

 新免弁助信盛の門人に村上平内正雄がいました。村上平内は弁助に試合を挑み、その二刀の前に敗退したことがきっかけで入門したといわれています。平内は求馬助と弁助に就いて修練を積み門弟中随一と言われるまでに腕を上げましたが、行ないが粗暴であったことからついに破門され、藩からも知行を召し上げられて浪人してしまいました。

 しかし平内から流儀を学んだ二人の息子は、人としての器量に優れ、剣の腕も抜群であったために、やがて熊本藩の兵法指南役に抜擢されて、再び二天一流を名乗ることを許されました。

 長男村上平内正勝と次男村上八郎右衛門正之という兄弟の系統はそれぞれに村上派(正勝系)、村上派(正之系)として熊本藩の二天一流五流派に数えられ、江戸末期まで栄えましたが、以後断絶してしまいました。

野田派

 村上平内正雄の次男八郎右衛門正之の高弟に野田一渓種信がいました。野田一渓は村上兄弟に学んで弟正之から皆伝を受けると共に寺尾派二天一流も併せて学び、更に独自の工夫を加えて野田派二天一流を称えてこれを子孫に伝えました。野田派も前述した肥後の五流派として栄え、村上派二流が途絶えてからは山尾派、山東派と共に二天一流の三大流派を形成し、大正期に寺尾派(山尾派)が断絶して以後は二大流派のひとつとして現在に伝えられています。

 野田派は流儀中最も実戦的な武技を備えた流派であったとも言われ、野田派を学んだ剣士の中には維新以降に竹刀剣道界で重きをなした人も数多くいます。明治4年生まれの加納軍次は竹刀でも二刀をとって活躍したことで知られ、また武徳会熊本支部や第五高等学校の剣道師範を勤めた鶴田三雄も加納と共に11代野田三郎八に就いて流儀を学び、それを松永展幸に伝えました。松永は熊本市内に剣道場武蔵館を設立し、全国二刀流会を組織して後進の指導にあたりました。

 一方、加納に流儀を学んだ指田次郎は将来も熊本の地に二天一流を残したいと、熊本県剣道連盟に流儀の保存を委託しました。これを受けて熊本剣連は野田派二天一流の保存会を設置し、流儀を私有とせず熊本剣連の公器として保存することを約し、「野田派二天一流」として日本古武道協会の認定を受けて加盟しました。しかし熊本剣連が保存継承したのは、形様式としての「五方ノ形」のみであり、現在は竹刀による二刀の修練は行なっていません。

新免(神免)二刀流

 二天一流から分派した流派は全国に数多くありますが、新潟越後に伝えられた新免(神免)二刀流もその一つです。

 宮本武蔵から「五輪書」を授かった寺尾孫之丞勝信の系統は、柴任三左衛門美矩によって福岡に伝搬したことは前述しました。福岡の二天一流は、黒田藩において立花家、大塚家、林家などを中心に栄えましたが、第6代立花弥兵衛増寿から印可を受けた丹羽五兵衛信英は、福岡から新潟に渡ってこの地に二刀の技を伝えました。

 丹羽の伝えた二刀の流儀は、後に新免(神免)二刀流として越後藩の剣術指南役を務める五十嵐家に伝わり、代々家伝の流儀として継承されてきました。

 ただ残念ながら五十嵐家の家屋が火災で焼失してしまったために伝書の多くが失われ、第9代の五十嵐平太郎兼福から五十嵐隆助に至るまでの継承者については明らかではありません。

 五十嵐家に伝わった新免(神免)二刀流は、他の二天一流のような木刀による「形」を伝えず、竹刀による二刀の打込稽古を専らとするところに特徴があります。このため、現代においては江戸期における竹刀稽古の古法を継承する数少ない貴重な流派ともなっています。

 (※残された資料には、「新免」と「神免」の両方の字が使われています)

二天一流の主な伝系

 ここに紹介する「二天一流伝系図」は、武蔵会の系譜を明らかにするために、主な伝系を記したものであり、学術的に二天一流の道統全てを表したものではありません。

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