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剣道の歴史と二刀流

古流における二刀流

 左右両手に長短の刀を持って戦う二刀流の元祖は宮本武蔵と一般には理解されていますが、宮本武蔵の二天一流以前にも二刀の形はありました。

 『大日本剣道史』には、「二刀の劍法は、武藏の二天一流より餘程古くから諸流にあつた、現に京流の山本勘助は天文十五年に二刀形を五本、新影流の慶長十五年の傳書に三本孰れも圖になつて居る、故に二刀を主としたのは武藏が元祖で、二刀の元祖では無い」とあります。

 ですから厳密には宮本武蔵が二刀流の創始者とは言えないでしょう。宮本武蔵以前には京流、新陰流の他に、寶山流にもにも二刀の術があったことが判明しています。以下、宮本武蔵以前に存在した寶山流と宮本武蔵以後の心形刀流並びに諸流派を紹介します。



【寶山流】

 昭和16年に発刊された吉田精顕著の『二刀流を語る』には、寶山流は次のように述べられています。

 「寶山流は中條流の末流で、堤山城守から後を寶山流と稱ぶやうになつた。この流儀の表は、燕飛、燕廻、鋒返、方揚廻、浮舟、浦波、山陰、芝引、蜻蛉返、千金漠傳、留太刀、以上十一手で、次に中段の形があり、普通の勝負には羽節切、陰見崩、一叉鐡などの形を用ひる。又浮鏡と云つて小太刀十一手の秘傳があつて、その形の名は、横太刀、浮曲角の太刀、八天切等と稱ぶ。そして關上十一手を以つて極意とする。この關上十一手と云ふのは、飛龍迫、臥龍迫、陰陽亂、上下太刀、飛鳥翔、陰虎亂、陽虎亂、虎亂入、晴眼崩、晴眼留、雲剣翔、の十一種で、皆二刀を用ひる形である。更に又『山の井』と稱ぶ形も秘傳であつて、高く深しとの意味から、この名があると云ふ。この外にも尚秘傳の太刀がある由である。所で、問題は、この流が關上十一手の秘傳を何時頃から有つやうになつたかであるが、中條流には二刀の傳がないから、これは寶山流になつてから、加へたものに相違ない。それに又、關上十一手の形には鐡人流の形そのまゝのものが多い所から察すると、寶山流が二刀の用法を加へるやうになつたのは、寛永以後のことではあるまゐか。この間の消息は不明につき、疑ひを留て置く。」

 この中で注目すべきことは、關上十一手という秘伝はすべて二刀を用いること、そしてこの手の中に上下太刀の術があることです。この上下太刀の構えは大刀を上段、小刀を中段に構える形で、現在の二刀の中心的な構えです。寶山流は西暦1370〜80年頃ですから、宮本武蔵誕生の約200年前に当たります。よって、現代剣道の二刀の中心的な構えである上下太刀の構えは、14世紀の寶山流に起源をたどることができるのです。


【心形刀流】

 心形刀流は江戸時代初期の天和2年(1682年)に、伊庭是水軒秀明によって創始され、幕末頃には江戸四大道場の1つに数えられるほどの隆盛をみた流派です。その術も多彩で、一刀、二刀、小太刀を共に伝えています。この点においては前述の寶山流に似ており、二刀の用法には、鐡人流から影響を受けた形が多いようです。

 二刀の形は、向満字、横満字、横満字殘、刀合切、相捲、清眼破、柳雪刀、鷹の羽などです。また極意の太刀として、水月刀、三心刀、無拍子などがありますが、このうち、三心刀も無拍子も二刀を用いる形です。

 この中で注目したいのは三心刀です。この構えは『二刀流を語る』によると、「短刀を頭上に廻轉して進み、敵の氣たるむ機を見て短刀を敵へ投げつけ、投げると同時に長刀にて敵の胸板を突く、この構は短刀を右手に長刀を左手に持つ逆二刀の構である」)と説明しています。この三心刀は、短刀を投げるという点と、通常の構えとは異なる逆二刀をとっていることが特徴的です。

 短剣を敵に向かって投げつけ、敵がひるむ隙に長剣で斬る術は心形刀流の他にも未来知新流の「飛龍剣」と寶山流の「飛龍迫」「臥龍迫」に見られるます。


【その他の流派における二刀流】

 宮本武蔵以降の二刀流は、「徳川時代に於ける二刀流の諸流派は殆んど皆宮本武藏の二天一流より出でたる末流なり」というように、直接的に宮本武蔵の影響を受けていなくても、全く無縁とは言えないのが実情のようです。宮本武蔵が教えた門人の数は千人を越えており、諸国遊歴中に教えたものまで加えたら二千人近くにもなったとのことですから、二刀の形を取り入れた流派は、二天一流の影響をどこかで受けていても不思議ではありません。

 二天流、圓明流、鐡人流、温故知新流、今枝流は二天一流より出現した末流ですし、未来知新流は宮本武蔵の末流ではないということですが、「其流名の如きも、武藏の末流なる温故知新流に對して未來知新流と名づけしのみならず、其二刀表の術名には五輪碎と云ふものあるは武藏の五輪書の名稱を想起せしめ、又極意の飛龍劒と名付くる太刀は、刀を右の手に差し上げて持ち、左の手にて脇差を振り廻して敵に近き間を見て短劒を向の面に打ちつけて直ちに長劒にて切て勝つものなるが、此短劒を手裏劒に打つ事は、一方流、寶山流にもあれど、武藏の一派圓明流に本來此態を傳ふるのみならず武藏の最も得意とせし業なりしこと等より考へ合すれば此の流も亦武藏流の末流と見るを以て穩當とす。」とあるように、全く宮本武蔵とは無縁の流派であるとは言えないようです。

 このように、宮本武蔵の二天一流以後多くの二刀流が各流派の術の中に取り入れられるなど影響を与えてきたことがうかがえます。それは、二刀を取り入れた流派は二刀の有用性を認めたからであり、その剣技が注目されていたと言えるでしょう。


竹刀剣法と明治維新後の剣道

 剣術の稽古が真剣から竹刀にとって代わったのは江戸時代の中頃、正徳年間(1711〜15年)です。

 剣の技を磨き実践するための撓や部分的な道具はそれ以前もありましたが、直心影流の長沼四郎左衛門が面と小手を完成させ、竹刀による打ち込み稽古を流行させたのがその先駆であったといわれています。

 この「竹刀打ち込み稽古」は武士のみならず、自分の命を自分で守るという手段として一般庶民にも波紋を呼びました。この発明・普及によって、一部の支配や軍事に関わる人間から、一般庶民へと剣術の担い手が拡大したことは近世の剣術の大きな技術革新であると言えるでしょう。

 このように、前述した流派を含めこの竹刀打ち込み稽古が台頭する以前は刃引き・木刀による形(勢法)・組太刀中心の稽古でしたが、竹刀打ち込み稽古が定着してからは竹刀と防具による稽古・試合を採用した流派が次第に勢力を広げていったのです。

 それでは、竹刀と防具を使用した剣術において、二刀流はどのように継承されていったのでしょうか。明治時代については当時脚光を浴びた撃剣興行、また明治2年に発足し第2次世界大戦終戦まで剣道に大きな影響を与え続けた大日本武徳会、昭和時代においては皇太子殿下御誕生奉祝昭和展覧試合、また学生剣道という立場から昭和初期に見られた二刀流の流行とその禁止過程について、それぞれ二刀流がどのように関わってきたのかについて見てみましょう。


【明治維新直後の日本社会と剣道】

 江戸時代においては数多くの剣術の流派が誕生し、竹刀打ち込み稽古も盛んに行われていたこともあり剣術にとっては隆盛を極めていましたが、明治2年に藩籍奉還、明治4年に廃藩置県により幕藩体制は解体となりました。また明治3年には庶民の帯刀を禁止し、明治9年に廃刀令が出されたことにより、武士の持つ特権はすべて失われました。江戸時代までの封建制度の解体が剣術にも大きな打撃を与え、衰退の道をたどることになります。

 この明治維新の影響による剣道の衰微を、高野佐三郎は次のように述べています。

 「明治維新は我が開國以來の大變革なりき。久しく將軍家の治下にありし封建の政治は廢せられて王政古に復り、文武の制度悉く一變せられ、從來庶民の上位にありて國民の中堅たりし武士の階級廢せられて、四民平等、國民皆兵の制度となり、鎖國の禁を解きて西洋の文物を盛に輸入し、文明日に進み、社會の状態は其の面目を一新せり。されば國民の思想も亦一變せり。文武の兩道は鳥の兩翼の如く、車の兩輪に等しく、何れを重んじ何れを輕んずる能はざるものとして、相並びて修行せられたりしに、武士も亦祿を離れて自活の必要起りしより、或は商業を營み農業を試み、或は専ら日新の學問に赴き殆んど武道を顧る者なきに至れり。殊に明治三年廢刀の令出でゝ庶人の帯刀禁ぜられ、同九年軍人、警察官吏、及び大禮服着用者の外は帯刀を禁ぜられ、犯すものは其刀を沒收せらるゝことゝなれるより、劍道の必要絶無となれるものゝ如く思惟せられ、古來武士の魂として多額の金銀を以て賣買せられし日本刀の名作も全く其價値を失ひ、劍道は衰微の極に達せり。」

 この文章は、政治体制の大変革の中における武士階級の苦悩を巧みに表現していると言えるでしょう。


【撃剣興行の誕生】

 前述の通り、明治維新に伴う社会変動は武士という特権的身分が剥奪されることであり失業を意味するものでした。講武所の剣道師範の榊原鍵吉ももその一人でした。そこで榊原は貧苦に喘いでいた武術家を救済するために、明治6年2月、撃剣の興行化を願い出ました。これは、相撲興行と同様に「一端ノ小屋ヲ設ケ、右場所ニテ門人共相集メ、竹刀并薙刀等ノ試合興行仕リ、角觝(相撲)同様東西ヲ分チ、衆人ヲシテ縦観イタサセ候」というものでした。

 この願い出は、明治6年3月に東京府知事の許可を得て、ついに実現の運びとなりました。入場料は金1朱であり、特筆すべきは一般より試合を望む場合は前々日に名札を持って申し込むなど広く開かれていたことでした。

 このような撃剣興行は、珍しさもあってか府下の各新聞にも取り上げられ、これがまた宣伝効果を引き起こし、衆目の注目するところともなりました。明治6年4月26日、期待と不安をもって初日の幕を開いたところ、押すな押すなの大盛況となり、予定より2日間延長したり、一部の入場者を断ることもありました。東京からこの興行が行われ、関東から関西、そして九州まで広がっていくほどの人気でした。

 しかし初めこそ絶大な人気を博した撃剣興行でしたが、あちこちで行われるようになると見通しも企画力もなく、あっという間に不振となってしまいました。相撲の勝負に比べて一本一本の判定が素人には分かりにくく、勝敗そのものの醍醐味よりも余興の部分の方が次第に肥大化していったことが最大の問題点として挙げられるでしょう。客寄せのために色々な曲使いが出るようになり、剣道の本質から全く離れたものになってしまったのです。


【撃剣興行と二刀流】

 それでは、撃剣興行の中に二刀流で登場した剣士はいたのでしょうか。

 芳年画による榊原撃剣会の錦絵の中には、二刀をとって戦う剣士は残念ながら見あたりません。撃剣興行を流行させた榊原健吉は直心影流でありであり、この流派には二刀の技が存在しないこと、また興行において直心影流の他に中心となった流派は神道無念流や北辰一刀流であり、これらの流派にもやはり二刀の技は見られません。異種試合も取り入れられた撃剣興行でしたが、二刀の使い手がいたかどうかは判然としていません。


大日本武徳会

【大日本武徳会の結成】

 明治維新による様々な改革の中で剣術が衰微しましたが、その復活の過程には撃剣興行の流行がありました。

 一方、明治10年、反政府勢力の拠点と目されていた鹿児島において、私学校の生徒を中心に不平士族らが西郷隆盛を擁して兵を挙げ西南戦争が始まりました。この戦争は戊辰戦争以来の大きな内乱となり、はじめは勝敗の行方も予断を許さないほどでしたが、西郷軍が熊本鎮台の攻略に失敗してから戦局は政府軍に有利に傾き、約8カ月近くの歳月を経て反乱は鎮圧されました。

 この西南戦争において政府軍の最大の勝因は抜刀隊でした。この活躍によって剣術の真価が改めて認識され、警視庁ではこれを巡査に科し、一般社会においても次第に行われるようになりました。

 そして明治28年には、剣術界の統一の動きも生まれました。この年、日清戦争で勝利した歓喜も醒めやらないまま、平安遷都1100年を記念して、京都府収税庁、鳥海弘毅の発案により、知事渡辺千秋を中心に、大日本武徳会が結成されました。そして平安神宮隣接地に武徳殿を建立し、大武徳祭を記念事業として、11月に第1回武徳祭を開催しました。

 大日本武徳会は武徳祭を開催するほかに、武術家優遇措置や段位称号制の制定、大日本剣道形(現在の日本剣道形)の制定、諸剣道大会の主催、武道(術)専門学校の開校などの事業を行い、後には武道の総括連盟としての役割を負うようになります。

 しかし、大日本武徳会の目的は、「平安神宮ノ邊リニ武徳殿ヲ造營スル事」、「毎年一回武徳殿ニ於テ武徳祭ヲ擧行シ、神靈ヲ慰メ奉ル事」、「武徳祭ニハ全國ノ武道家ヲ會シ武道ヲ講演シ、以テ武徳ヲ永遠ニ傳フル事」の3点であり、近代スポーツのように剣道の競技化を推進することは武徳会の目的ではありませんでした。

 このことは武徳会に属した剣道専門家が、日本一のチャンピオンを決めるリーグ・トーナメント試合に初めて出場するのが、会の発足から56年を経た昭和4年の天覧武道大会であったことからも伺えます。武徳祭で行われた試合というものは、演武会形式の個人試合のみが行われ、昭和20年の武徳会解散まで続きました。この流れは現在の全日本剣道演武大会(京都大会)に全日本剣道連盟主催により継承されています。


【大日本武徳会と二刀流】

 大日本武徳会は史上初の武道総合団体であり、その後の剣道の在り方に大きな影響を与えました。その大日本武徳会が二刀流をどのようにとらえていたかについて、ここでは大日本帝国剣道形と大日本武徳会が定めた試合審判規定から検討してみましょう。

 大日本帝国剣道形は現在の日本剣道形に受け継がれ、また試合審判規定も全日本剣道連盟における試合審判規則の原型となっていることから、この2点について検討することは、明治・大正時代を含めた戦前の剣道の在り方が、戦後以降における現代剣道にどのような影響を及ぼしているかを考察するにあたり、極めて有効な手段であると考えられます。

 まず大日本帝国剣道形の成立については、高野佐三郎の『剣道』に、「大正元年大日本武徳會及び高等師範學校相協議し武徳會主となりて『大日本帝國劍道形』を制定せり。從來各流各學校に於て選定せる形は其數數百に上り往々形としての意義を沒却せるのみならず劍道教授上種々の不便少からざりき」とあるように、当時はそれぞれの流派が独自に形を残しており、武徳会という総合団体の立場から形を教授する場合に不都合であるために、武徳会として統一した剣道形を作る必要がりました。そこでまず明治39年に、渡辺昇、柴江運八郎(神道無念流)、三橋鑑一郎(武蔵流)らの範士が中心になって、上段、中段、下段(天地人)の3本から成る武徳会剣術形が制定さました。

 この後、明治44年に剣道が中学校に正課教材として加えられるようになり、ますます発展するに及んで、武徳会が新しい形を東京高等師範学校と相談協議して作成することになり、大正元年に大日本帝国剣道形が制定されました。作成に当たっては、剣道形調査委員会を設け、全国から25名の委員が選ばれ、委員の中から主査として、根岸信五郎、辻真平、内藤高治、門奈正、高野佐三郎が選ばれました。これら5氏によって草案が作成され、制定されたのです。

 この大日本帝国剣道形は、そのまま現在の日本剣道形に受け継がれており、太刀の形7本、小太刀の形3本の計10本から成っています。小太刀の形は打太刀が長剣、仕太刀が短剣で行うものであり、長短を同時に持って行う二刀の形は採用されませんでした。

 その理由について直接的な説明はありませんが、やはり高野佐三郎の『剣道』に「劍道の形は劍道の技術中最も基本的なるものを選みて組み立てたるものにして、之によりて姿勢を正確にし、眼を明かにし、技癖を去り、太刀筋を正しくし、動作を機敏輕捷にし、刺撃を正確にし、間合を知り、氣位を高め、氣合を練る等甚だ重要なるものなり」とあるように、この剣道形は剣道修行の中で基礎習練と位置づけられており、それに対して両手にそれぞれ刀を持って行う二刀は応用技術であると捉えられていたと考えられます。

 数多くあった流派の中で二刀の形を残しているものは前述したように二天一流以降増えたとはいえ、流派全体から見ればそれでもまだ一部に過ぎなかったこともあり、剣道形制定の趣旨になじまないことから採用されなかったと解するのが適当でしょう。

 次に大日本武徳会による試合審判規定から二刀流がどのように位置づけられてきたかを見てみましょう。

 前述のように、大日本武徳会では優勝者を決めてその栄誉を称えるといった今日的な大会は存在せず、年1回開催される武徳祭において演武形式による個人試合を行なっていました。この武徳祭出場に際し竹刀等の企画は特に決められておらず、演武者の判断に任されていたものと思われます。

 ちなみに一刀の竹刀については、幕末の講武所で定められた3尺8寸が基準となっており、明治40年に発表された大日本武徳会による『剣術講習規定』にも「竹刀ハ三尺八寸ヲ度トス」と決議されていることから、この基準に合わせて実施されていたものと推測されます。重さについての記述はこの時点では記述がなく、大正8年の『剣道試合ニ関スル心得』の中で、「竹刀は實用に遠ざかりたる長寸又は輕量のものを使用するを許さず」とあり、許容範囲から外れた規格の竹刀の使用はこの心得により禁止されましたが、具体的な基準については明確な記述がなく、武徳会の裁量に委ねられていたと思われます。具体的な重さの規定は大正14年の『剣道試合ニ関スル心得』によって、初めて竹刀の重量を鍔を除いて150匁以上と定めました。しかし二刀使用の場合の規格に関する記述は長さ、重さともに見られません。

 二刀について竹刀の規格が定められたのは昭和18年と極めて遅い時期のことでした。昭和18年の『大日本武徳會劍道試合審判規程』では、第9条に次のような記述があります。「竹刀ノ長サ三尺六寸以内(柄一尺以内、鍔下約九寸以内)トス。但シ兩刀使用ノ場合、小刀ノ長サハ二尺二寸以内(柄五寸以内、鍔下約四寸五分以内)トス」

 この昭和18年規則では小手も左右平等に斬突部となっていたり、禁止事項が減り、罰則の廃止、一本勝負の採用など、実践を想定した規程が盛り込まれています。そのため従来は一刀の場合3尺8寸であったものが3尺6寸へと、真刀に近いものとを用いるようになりました。つまり二刀の大刀は一刀の竹刀と同じ規格のものを使用することになります。二刀の大刀と一刀の竹刀を同じ基準で使用することは、後述する学生剣道と比較しても特徴的です。

 昭和16年に太平洋戦争が勃発し、剣道も戦技化の傾向が著しく進む中、実戦で敵を斬突することを想定した剣道は、打撃の強度にも影響を与えました。それは二刀の使用に直接影響を持つものでした。

 二刀に限らず片手打ちに関しては、明治44年の『剣道教範』における『審判心得』で、片手打ちと片手突きは「勝とせざる事」として、片手技は「研究を要すべき刀法」としながらも無効とされていました。しかし大正8年の大日本武徳会による『劍道試合ニ関スル心得』では「片手撃ち片手突きは最も正確なるものにあらざれば勝に算せざるものとす」とされ、十分な打撃によれば片手での斬突も認められるようになり、昭和18年の規程では「正確ニシテ十分有効ナルモノニ非ザレバ勝ト認メズ」18)とその精神を引き継いでいます。

 ただし、戦技化の剣道においては、「片手突き、片手上段は勿論認められず、左片手を以てするは認められない。ただ鍔下をもてる右手の片手斬突は充分有効なる時は勝ちとする」とあるように、再び片手打ちは両手に比べ打撃力が弱いという理由で実質上無効となったようですが、利き腕である右手で、その力を生かしきれる斬突ならば有効とするという条件が付されました。そして柄を握る位置は、日本刀の場合柄頭いっぱいに握ると、斬撃の際刀の柄の折れる心配があるため柄頭を少し余して握るという条件もありました。

 このような状況で果たして二刀はどのような扱いを受けたのでしょうか。

 この点については『日本剣道の歴史』には、「廃止論もあったが、実践においては右腕を失ったら左腕で戦わねばならぬなどの理由から認められたが、実際は白眼視されていたといえよう」とあるように、実戦の場面においては左右両手が自在に使用でき、実戦でも全く役に立たないものではないという観点から認可されたのです。

 このように、大日本武徳会においては、初期は竹刀の規程が明確でなかったこともあり、竹刀の軽量化が進み、そのために徐々に規程がなされました。二刀に関しては昭和18年と遅く、少数者の存在に関しては逐一規定する必要もなかったこともありますが、武徳の啓蒙という武徳会の目標的観点から考えると、黙殺できる存在でもなかったものの、二刀流の継承には消極的であったと言えるでしょう。


※このページの掲載写真の一部は、壮神社並びにスキージャーナル株式会社「剣道日本」よりご提供いただきました。

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