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戦前における二刀の明暗

昭和天覧試合

【昭和天覧試合の概要】

 昭和天覧試合とは、昭和4年の御大禮記念昭和天覧試合、昭和9年の皇太子殿下御誕生奉祝昭和天覧試合、昭和15年の皇紀二千六百年奉祝昭和天覧試合の3回を指し、昭和初期、戦前までの剣道界における最大イベントとしてして位置づけられています。

 この昭和天覧試合において、昭和4年では太田真一(石川・24歳・四高学生)、本多勧次郎(千葉・58歳・獣医師)、森田可夫(愛媛・22歳・松山高商学生)の3名が二刀で出場し、森田がベスト8、本多がベスト4に進んでいます。

 昭和9年では藤本薫(香川・21歳・郵便局員)が準優勝、志田三郎(栃木・32歳・会社員)も1回戦を突破しています。

 昭和15年では、萱場照雄(宮城・31歳・警察官吏)が準優勝、ほかに渡辺洋(茨城・21歳・水戸高生)が二刀で出場しています。

 3回の昭和天覧試合を合計して7名が府県選士の部で出場していますが、ここでは昭和9年に刊行された昭和天覧試合の記録本を参考にしながら、藤本、志田の二刀の特色を考察していくことにします。

 まずこの昭和天覧試合の大会要項によると、この大会では剣道と柔道が行われ、出場者の資格に合わせて、老大家による特選試合、専門家でありかつ天覧試合出場にふさわしい者を選考した指定選士優勝試合、そして専門家以外で各府県のほか北海道、樺太、朝鮮、台湾、関東州等の代表である府県選士優勝試合に大別され、特選試合と指定・府県試合の準決勝以上の試合が天覧に供されました。

 試合方法は、二刀が出場している府県選士の部においては、出場者51名をあらかじめ抽選で12部に分け、各部毎に総当たり戦を行い各部の勝者を決定します。次に各部勝者12名を更に4部に分け、同様に各部の勝者を決定します。この4名が、御前において勝ち抜き法により試合をし、優勝者を決定するという方法で実施されました。

 試合審判規程については、5分間の3本勝負で行われ、勝敗の決しない場合は、原則として5分間の延長戦を行ないました。有効となる斬突部位は、面(こめかみ部以上)、胴(左右)、右小手(揚小手及び上段の場合等は左小手も有効)、喉(突垂れ)であり、二刀において注意すべきは、片手の撃突に際し「正確ニシテ最有力ナルモノ」でなければ勝ちと認められなかったということです。

 しかし、今回の規程は当時の試合審判規程と大きく異なるものではありません。また、使用する竹刀については、長さや重さなどの記述はこの規程には見られませんでした。

 さて、それでは天覧試合における実際の二刀の戦いぷりはどのようなものだったのでしょうか。昭和9年の天覧試合では準優勝した藤本選士と志田選士が二刀で出場しました。以下この2名について、試合結果などをもとに見て行きます。


【昭和天覧試合の二刀流の活躍】

 まず志田選士の試合結果を見てみます。

 第1回戦(第11部)
志田(栃木)メ メ御供(山形)
メ ド弘原(山口)
ド コ 西(滋賀)

 第2回戦(第1部)
志田(栃木)野間(東京)
 萩(大阪)

 志田選士は元早稲田大学剣道部主将として活躍し、「志田の二刀」と言えば、当時は都下を風靡したといいます。彼は栃木県代表で今回の天覧試合に出場を果たしたが、栃木県下においては、足尾の志田に敵する者一人もなく、大学卒業後もその剣技はますます練り上げられたものとなったことがうかがわれます。

 第1回戦の相手はすべて警察官でしたが、それぞれ1本取られながらも2本価値を収め、第1回戦を突破しています。第2回戦では野間選士に逆胴を奪われ1本負けを喫し、荻選士をも下した野間選士が準決勝へと進み、志田選士は惜しくも2回戦で姿を消しました。

 志田選士の二刀については一般的にも高い評価を得ています。記録本による志田選士の紹介では

 「彼の二刀流は、比較的正しい型をのこし、頗る變化に富んだ器用な技を有つてゐる、正眼に構へても、十字に構へても、敵手の動きに應じて、左胴へ左横面へ、或は小手へ、自由に變化し、近間に入つては、左の小刀を利かして、巧みに小手を撃つ。その迅いことゝいつて瞬きする間もない。今しも志田は、得意の亂十字、兩刀をがつきとかまへて立つている」

とあり、天覧試合後の回顧座談会の中でも、藤本選士と比較してではあるが
 「早く負けた方(志田選士のこと)が強くはないか(西園寺八郎)」
 「早稻田の方(志田選士の)が能く使つて居りますね(渡邊八郎)」
 「もう一人の志田選士の方は早稻田でやつたんです(高野佐三郎)」
 「あれ(志田選士)は早稻田大學で修行して、二刀の方式に依つて修行したんです(高野)」
 「私共が見たのでは、あの方(志田選士)が眞物だと思ひます(渡邊)」
 「あれ(志田選士)は確かです。相當に竹刀も使つて居ります(齋村五郎)」
 「相當に出来て居りますな(持田盛二)」
とのように、師について二刀を習得したこともあり正統派の二刀流として評価されています。なお、師というのは高野佐三郎のことです。

 有効打突について考えると面が最も多く4本、次いで胴が2本(いずれも逆胴)、小手を1本決めています。逆に奪われた打突は面が2本、逆胴が2本。ここで特筆すべきは、面の決まり技4本の中に小刀での面打ちが2本あることでしょう。現在の小刀での打突については厳しく定められているため1本になりづらいのが現状ですが、この天覧試合では小刀での打突も十分な打ちであったため有効とされています。

 次に藤本選士について検討します。

 第1回戦(第8部)

藤本(香川)コ メ古賀(長崎)
メ ド大友(台湾)
メ メ町田(長野)

 第2回戦(第4部)
藤本(香川)ド コ松海(大分)
ド メ小川(秋田)

 準決勝戦
藤本(香川)コ メ小笠原(青森)

 決勝戦
藤本(香川)メ ド野間(東京)

 藤本選士が二刀を遣う動機については、次の通り記されています。

 「彼は昭和七年春高松中學を卒へたが、丁度、中學三年の頃、ふと二刀を使つて見ようと考へたが、當時彼の身邊には、二刀の使ひ方を指南する師は居らなかつた。先づ手づくりで竹刀を作つた。彼が三尺六寸の大刀と、二尺六寸の小刀とを持参して學校の道場にあらはれた時、これを見た劍道師範は、『君は二刀を遣ふだけの軆力を有つて居らない、やめよ』と、撤回を命じた。だが、折角、逆二刀を遣ふことを思ひ立つたので、其のまゝ止める氣にはなれなかつた。師範から注意はうけたが、依然、稽古をつゞけていた。殊に、左の手が、右の手と同じやうに動くやうに、絶えず惰性をつけてゐた。間もなく、高松中學劍道部と、香川師範劍道部との對校試合が行はれたが、此の時、彼は始めて逆二刀をもつて敵に對した。忽ち敵を仕止めて、その威力を發揮したので大いに自信を有つやうになつた。のみならず、先きに撤回を命じた師範も、藤本に對して此れを許すことになつて、以來、高松中學劍道部には、逆二刀の藤本薫が大いなる存在として認めらるゝやうになつたのである。」

 このような動機で逆二刀を始めた藤本選士は、後に「難剣」と呼ばれる剣士となりました。今回の天覧試合でも、その強さから優勝候補の第1に挙げられていたほどです。

 この前評判は彼の実際の戦績にもよく現れています。第1回戦では藤本選士はいずれの試合も瞬く間に2本勝ちを収め、2回戦出場を決めています。2回戦も、緒戦の松海選士を難無く敗り、小川選士と戦うこととなりましたが、ここで逆胴を決められたのが、この天覧試合において初めて奪われた一本でした。その後苦戦しながらも、藤本選士は横面を決めて勝利し、準決勝へ駒を進めたのです。

 準決勝戦においても藤本選士の力が衰えることはありませんでした。対戦相手の小笠原選士から、小手と面を奪い決勝戦出場を決めました。第2回戦の小川選士をから逆胴を奪われたのみで、他の試合はいずれも完勝しています。その藤本選士と決勝戦で対することとなったのは、2回戦で正統派の二刀・志田選士を下した野間選士でした。

 野間選士の剣風を研究していた藤本選士は、その努力が報われ胴を奪います。しかし野間選士は動ぜず、藤本選士は退こうとしたところを逆胴に切られ、一本一本となりました。藤本選士も惜しい打ちを繰り出しますが決め技にはならず、最後は藤本選士が大刀で面を打ってきたときに、野間選士がすかさず藤本選士の面をとらえ、勝敗が決まりました。

 藤本選士も優勝こそ逃したものの、その健闘は皆に称えられるものとなりました。決め技はやはり面が一番多く6本、次に胴が4本、小手が3本となっています。奪われた技は決勝の勝敗を決める面を除いては逆胴を2本取られたのみでした。先程の志田選士と比べ奪われた打突が少ないことは、彼の難剣ぶりと、どの試合も実際の勝負時間がほとんど短かったことから、相手が作戦を立てる前に勝利する短期戦が功を奏したものと考えられます。

 このように、昭和9年の天覧試合は、正統派の志田選士、難剣の藤本選士という対極的な二刀の剣風によってより盛り上がったということが言えるでしょう。

 ところで、3回挙行された昭和天覧試合において、二刀で出場した7名のうち3名は学生でした。これは昭和初期に学生剣道界では二刀が流行していたことの結果でもあります。戦前の二刀を考察する最後に学生剣道と二刀との関係について見ておきます。


学生剣道における二刀流の功罪

 昭和初期から終戦までは、「二刀は一時非常な流行を来し、学生間には特に著しかったが、これは近時試合の流行に伴い、試合に勝たんがため、審判上の欠陥に乗じて、奇効を奏せんとするの流行である」(『剣道の理論と実際』縄田忠雄)とあるように、学生剣道界において二刀がとりわけ注目され、その存在価値が大きく問われた時期でした。

 では学生剣道界では、どういう理由で二刀が注目されたのでしょうか。

 学生界における剣道大会は、大正2年に始まった京都帝国大学主催の全国高等学校専門大会、大正13年に東京帝国大学主催の全国高等学校専門大会を筆頭に、各学校主催の大会が盛んに行われましたた。

 昭和に入ると昭和3年に全国の学生剣道を統一する組織として全日本学生剣道連盟が結成され、この年から全国高等専門学校剣道大会が、昭和5年からは全国中等学校剣道大会が始まっています。昭和4年に行なわれた昭和天覧試合では、二刀で出場した3名のうち2名は学生でした。彼らの活躍もあり、学生剣道界では二刀が注目されるようになり、その数も増え、流行となったのです。

 この時期に二刀に転向した学生達は、いかなる動機をもって二刀をとったのでしょうか。当時の回顧録を見ると、例として旧制姫路高等学校では、
「小生の左利きが栗林先輩に買われて、勝つ為には手段を選ばぬマキャベリー方式で、逆二刀をやらされる事になりました(関博)」

「関先輩もその時に現役を退いたので、姫高には二刀が居なくなった訳である。そこで何の因果か、私に二刀をやれということになった、否応なしの強制に近いものであった(大西義明)」

「二刀に関しては十四回の福岡、大西先輩等の卒業とともに、一名も存在しなくなり、多数入部の17回生から、誰か二刀を養成しようというのが、当時の実情であった(伊豆蔵豊大)」
とあります(『白鷺の賦』)。

 つまり、試合に勝つということが第一義であり、相手が不慣れなために二刀をとれば勝ちやすいという発想から試合で二刀をとる者が現れるようになり、彼らの活躍を見て次々と二刀が生まれていったという状況が想像されます。二刀の数が増えてくるにつれ、二刀と対戦した場合の対策も心得ておかなければならない必要が生じ、試合で二刀を使わないまでも「研究用」としてそれぞれの学校で二刀を養成するようになったことが二刀流行の原因でしょう。

 試合で勝ちたいという当然の欲求から当時の学生達が選んだ結論は、二刀をとるということと、竹刀を軽くすることでした。これは当時学生剣道の大会では竹刀に関する規定がなく、学生の裁量に委ねられていたため、「勝たんが為に竹刀を極端に細く軽くする傾向が顕著」(『教育剣道を培った人々』)になったわけです。この竹刀の軽量化は二刀にも強力に結びつきました。そのため二刀でも竹刀が軽いため扱いやすくなり、「試合に速成効果のある試合用二刀流(試合だけ二刀で行い、引き分けだけをねらう者)、あてっこ用の軽量竹刀(60匁から90匁)が使用されるようになり、これは、勝利至上主義に走ることが懸念され、何らかの規制が必要」(『ゼミナール現代剣道』)なったのです。

 そこで、京都帝国大学主催の高専大会では昭和4年の大会を通観して、翌昭和5年より次の3項の禁止を加えました。それは、
   一、二刀を禁ず
   二、一試合に於いて竹刀二合を折りし場合は一本の負とす
   三、鍔競り合の時、相手の竹刀を握りまたは自己の柄を相手の手中に入るるべからず
というものでした。

 このように、勝利至上主義に走り、このまま黙殺しておけば剣道の重要な徳目である武徳を見失ったものとなってしまうために、禁止という措置をとったのでした。

 さて、それでは当時の学生はなぜこれほどまでに勝利至上主義を目指していたのでしょうか。

 この問題を考えるに当たり、当時の社会情勢を考えることが不可欠です。大正から昭和初期の当時を振り返ると、大正3年から7年まで第1次世界大戦、同じく7年にはシベリア出兵、昭和6年の満州事変など、大正デモクラシーの中にありながら戦時色が濃く、戦争と隣合わせになっていました。また当時は臣民に徴兵制があり、実戦を想定した場合、戦争で生き残り、大日本帝国をより発展させるために戦うことが美徳とされていた時代です。そしてその原動力となるべきは学生でした。

 このような社会事情もあり、勝利至上主義が、実戦を前提とした形で剣道界にも蔓延していたためであると考えられます。冷静に考えればこのような行動を当時の学生達がとったことは道徳的に許せないものかもしれませんが、当時の社会が学生達に権謀術数に導いたということを考慮に入れるならば、学生達は一概に責められるべきではないでしょう。

 一方、全日本学生剣道連盟については、その主催する大会では昭和5年の時点では連盟として禁止はしていません。全日本学生剣道連盟が竹刀について規定を始めたのは昭和9年でした。この年に、一刀、二刀ともに竹刀の長さ及び重さが規定されたのです。一刀の場合は3尺9寸以内、120匁以上(鍔を除く)、両刀の場合は長さ3尺6寸以内(小刀の長さは大刀の半分を基準とする)、重さ100匁以上でした。

 しかし、第2次世界大戦も本格的になった昭和18年、「學徒劍道試合規定」が発表され、「試合ハ攻撃ヲ主眼トシ斬突ヲ堅確ナラシメ特ニ姿勢態度ニ留意シ實戰的氣魄ノ錬成ヲ旨トシテ行ハシムベシ」と、実践を想定して剣道の試合を行うという目的をもち、学生に関しては「兩刀ハ之ヲ用ヒズ」と規定され、二刀の使用は学生には禁止され、大日本武徳会の規定のみ二刀の使用を許可されることとなったのです。


※このページの掲載写真の一部は、スキージャーナル株式会社「剣道日本」よりご提供いただきました。

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