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戦後の剣道と二刀流

日本の敗戦と撓競技

 日本が無条件降伏を宣すると、日本社会は実に騒然たる様相を呈し、日本国民はかつて経験したことがない敗戦の惨めさを味わうことになりました。この当時は剣道の興廃よりも日本の興亡が先決だったのです。特に天皇制の存亡は、日本の国体機構の大変革と関係するものでしたから、当時の国民の最大関心事でした。

 しかし、占領軍は天皇制に対し天皇を戦犯として断罪しなかったことなど、政策は以外に寛大で、日本の国体と密接な関係のもとで発展してきた剣道の関係者はもとより、国民の全体がほっと胸を撫で下ろしたというのが実感でしょう。しかし、こと剣道については天皇制のようにはいきませんでした。連合軍は剣道に対して様々な弾圧を加えたのです。


【敗戦から撓競技成立までの過程】

 占領軍による弾圧はまず学校剣道が対象となりました。「終戦ニ伴フ体錬科教授要項(目)取扱ニ関スル件」(昭和20年11月16日、発体80号)により、正科での武道(剣道・柔道・薙刀・弓道)の授業が中止され、「武道ノ取扱ニ関スル件」(昭和20年11月16日、発体80号)により、校友会運動部の武道(剣道・柔道・弓道)も「部班等ヲ編成」してはいけないことになりました。

 しかしこれらは愛好者が校内で自由に練習することの可否については何等触れていませんでしたので、校内又は校外で剣道をするものがあり、地域的に種々問題が生じて行きます。

 そこで文部省は「学校体錬科関係事項ノ処理徹底ニ関スル件」(昭和20年12月26日、発体100号)により、「学校又ハ付属施設ニ於テ武道ヲ実施セシメザルコト」が再度通牒され、「個人的趣味等ニ基ク実施ニ関シテハ尚誤解ヲ招ク虞アルヲ以テ爾今学徒ノ発意如何ニ拘ラズ学校内又ハ学校付属ノ施設ニ於テハ一切之ヲ実施セシメザルコト」が決まりました。

 これにより、学校内ではたとえ個人的であれ剣道を実施することはできなくなりました。防具や竹刀も焼却したり生徒に配布したりして、学校内には置かないよう細心の注意が払われました。

 占領軍の武道に対する第二弾は、ついに武徳会に放たれます。大日本武徳会は戦中に時局の要請によって、民間団体から政府の外郭団体となり、武道の総合団体として武道を統制した、いわば政府の協力団体でした。それがため終戦後直ちに改組して民間団体として再出発します。

 しかしながら占領軍の追撃は予想外に厳しく、昭和21年7月、大日本武徳会の活動に対しては、占領軍の占領方針にある、日本の軍事、または準軍事教練、あるいは日本における軍国主義、好戦的精神の持続等の禁止、並びに軍国主義的または過激なる国家主義的観念の流布の禁止等の禁止事項に抵触する疑いがあるとして、政府に対して報告書の提出を求めると同時に、独自の立場からも武徳会の調査を開始したのです。

 武徳会は詳細な報告書を作り、武道の平和的人間形成の理を説明しましたが、占領軍の意向を緩和することができず、ついに昭和21年9月13日、緊急常務理事会を開いて突発的に解散することを決め、同年10月31日に正式に解散しました。

 この緊急常務理事会における大日本武徳会解散後の方針並びに財産処理に関する大綱は次のとおりです。「今後剣道、柔道、弓道等の愛好者は地方毎にそれぞれの同好者相集まり、民主的、自主的組織を創設し、明朗闊達なる国民スポーツとして再生発展するの適当なるを認む。従ってこれらの組織機構は、中央集権的な傾向を避けるとともに、指導者には軍国主義または超国家主義的傾向を有する者を完全に排除するよう徹底を期する。」

 学校や一般社会の剣道が終戦直後間もなく禁止されたのに対して、唯一黙認されていたのが警察剣道でした。内務省解体前の警視庁にあっては、昭和21年5月6・7日、警察練習所演武場において方面対抗武道大会が開かれています。また、戦前からの剣道師範も健在で、斎村五郎・持田盛二・岸川辰次・小野十生・森正純・柴田萬作・堀口清・伊藤雅二らが警視庁に残っていました。

 しかし、昭和22年12月31日で内務省は廃止され、翌昭和23年3月7日をもって中央集権的国家警察は改組され、国家地方警察と自治体警察の二本立てとする新警察制度が発足したのにともない、警察剣道も以前ほどにはできなくなりました。さらにこれに追い討ちをかけるように、昭和24年11月10日、「剣道の訓練中止について」(務発第55号)が通達され、これ以降4年間剣道はできない状態となってしいました。

 この時苦肉の策として生まれたのが「警棒術」です。これがのちの撓競技を考えるうえで大変参考にされました。警察で剣道が再びできるようになったのは、昭和28年5月11日、「剣道訓練の実施について」(務発第103号)が通達されてからです。


【全日本撓競技連盟の結成】

 学校での剣道は全面禁止、武徳会は解散、多くの道場は閉鎖されていた中にあって、それでも細々と剣道を続けていた人達が集まり出したのは、昭和23〜24年頃からです。そうした中、笹森順造・武藤秀三ら剣道愛好者が東京剣道倶楽部の名で呼びかけた第1回剣道競技大会が、昭和24年10月30日、東京鉄道局道場で開催されました。

 この時参加した剣道家が集まって会のあり方や新しい剣道競技の規則・審判法、普及方法等を話し合い、その結果、同年11月25日、各剣道倶楽部を母体とする東京剣道連合会が結成され、会長には笹森順造、副会長には武藤秀三と宮田正男が就任しました。この連合会に参画した人達は、都下の大学校友会を主体とする旧学生剣道連盟出身者の集まりでした。

 これを公的な組織とするためには、「剣道」という名称を使うことに疑義が寄せられ、やむなく、しない(竹刀)で行う競技であるから「撓競技」という新しい名称を考え、昭和25年2月5日、全日本撓競技連盟の結成をみます。同連盟の会長には笹森順造が就任し、東京剣道連合会の役員の多くが理事や事務局員として連盟を支えました。

 同連盟主催の第1回全日本撓競技大会は、愛知国体に合わせて10月29日、名古屋電鉄本社講堂で開催されました。こうして順調にのびてきた撓競技は、翌昭和26年5月4日、日比谷公会堂で第1回全国選抜しない競技優勝大会、11月25日には九段高校体育館で第2回全日本撓競技大会を開催し、新しいスポーツとして注目を集めるようになって行きました。


【撓競技と二刀との関係】

 新しく考案された撓競技は、それまでの剣道と比べて色々な点で特色をもった競技でした、これは剣道の精神を恐れた占領軍の目をごまかすための苦肉の策として、西洋フェンシングの形式をまねた日本的な撓の競技でした。

 面はマスクといい、面金のところが金網となっており、面蒲団は厚地布製で、三ツ割でなく顎まで一続きのものでフェンシングの面に酷似しています。胴はプロテクターといい、フェンシング式で西欧の15世紀から16世紀にかけて行われた金属を布地に鋲綴じにした形式に似ており、厚地の布に鉄または竹の細板を縫いつけたもので、股の付け根に小鰭状の垂を一つずつ付属しています。小手はグローブといって剣道の小手に似ていますが、金属かファイバーの細板を篠状に縫いつけたものです。

 これらの防具の特徴の他にも次のような特色をもっていました。

 第1の特色は、試合場を縦(7メートル)・横(6メートル)の境界線で区切り、出発点を明記したこと。

 第2は、服装を「丈夫な布で作った上衣とズボンを用いる」としたことです。色は「黒色を除く外自由」とされましたが、実際は白色が殆どでした。また、屋外の場合は、「運動靴」の使用が認められました。

 第3は、試合時間を規程上に明記したこと。個人試合の試合時間はA級7分、B級5分、C級3分、團軆試合の試合時間は各個人の試合時間を3分とし、個人、團軆試合とも延長時間は2分としました。

 第4は、審判を3審制とし、判定に際しては一定の裁決権(平等の権利)を有するとしたこと。

 第5は、一本勝負や三本勝負ではなく、一定時間内の得点制を採用したこと。

 第6は、足搦みや体当りを禁止し、その他一定の行為を反則とし、違反者には罰則を科したこと。

 第7は、打突の際、自然に生じた生理的発声以外を反則として禁止したこと。

 これらの特色は、「撓競技を振興し競技愛好者の体力の向上と各撓競技連盟相互の連絡親和とスポーツ精神の涵養を図る」(資料『現代剣道史』)目的の下に具現化されたものであり、「撓競技は日本民族独自の尊い経験を素材として、これに全く新しい意義を盛ってうちかえ近代化し、科学化し、しかも平和民主的な純正競技として最近新たに案出され、国民大衆待望の中に華々しく発足した体育である」(『日本剣道の歴史』)とその目的理念を述べています。

 さて、この全日本撓競技連盟による撓競技法での二刀に関する規定は果たして存在するでしょうか。

 まず撓の規定については、「撓は外部を白の布地の袋にて包み(袋撓)、長さ三尺九寸まで、重さ八十匁以上とする」「鍔は直径五寸以内とし形は制限しない」とのみ規定されています。また得點の部位に関しては、「面部(中央、左、右)、小手部(左、右)、胴部(左、右)、喉頭部(但しA級のみ)」とされています。

 戦前の試合規則と異なる点は、袋撓の規定は一刀で試合をするものであり、二刀についての記述がないこと、また得點部位に関しても小手部は通常の場合でも左右平等に有効となっていることが挙げられます。これは、撓競技は武道としてではなくスポーツとして復活、実施されたものであり、武道的要素を取り入れられなかったが為に小手部も左右とも有効となっていること、またスポーツであるからこそ相互の試合者は同じ条件で試合を行わなければならず、一刀対二刀の試合はスポーツとしてフェアプレーに反するため、二刀についての記述がないことが考えられます。


戦後剣道の復活と二刀流

【全日本剣道連盟の結成】

 このように全日本撓競技連盟が結成され試合も行われるようになり、また撓競技が中学校以上の学校の教材として採用されたこともあり盛んになる一方で、撓競技は余りに剣道の本質を離れたものと考えられ、占領治下にあって剣道を公式に行うことができないうちは、一時の方便として撓競技を行うこともやむを得ないが、時期が来たならば剣道を行いたいという気配が濃厚でした。

 そして事実剣道関係者は、講和条約締結後、各地で剣道連盟の再組織化を急いでいました。この努力が実り、昭和27年10月14日、各剣道連盟が一本化して全日本剣道連盟の結成をみます。

 連盟の結成にあたって、剣道も今後はスポーツの一種目としてゆくことが確認され、それにふさわしい競技内容への改編が急がれました。こうした努力の結果、昭和28年5月19日、「社会教育としての剣道の取扱について」(文社体第二一四号)が通達され、社会一般において剣道を実施してもよいこととなりました。学校体育においても、その後慎重に検討した結果、7月7日、「他のスポーツ種目と同様な取扱のもとに指導されるもの」として、「学校における剣道の実施について」(文初中第三八五号)が通達されました。

 こうなると、撓競技と剣道との関係において、両者の区別を明確にするか、さもなくば一本化するかという問題が生じてきました。また、日本体育協会への加盟問題と国民体育大会参加問題も絡んで、区別か一本化かを早急に結論づけなければならない状況となりました。そこで、両連盟が話し合った末、昭和29年3月14日、幾多の紆余曲折を経ながらも、両連盟合同の全日本剣道連盟の誕生をみました。

 これにより、日本体育協会への加盟問題も、翌昭和30年3月23日に正式に認められ、その年の秋に開催される第10回国民体育大会には、正式種目として参加できることとなりました。10年という歳月の末、新しいスポーツとしての剣道はようやく認められ、定着し始めたということができるでしょう。


【試合・審判規則の整備】

 昭和27年10月14日に全日本剣道連盟が結成し、試合・審判規則も整備されることになりました。そして昭和28年、学校に剣道が採用されるに及んで、従来の撓競技の規則と剣道連盟でつくられたものを研究して現在の規則の元と言えるものが出来上がっています。その後、部分的な修正を経て、昭和35年、高校、警察、一般とそれぞれの立場で個々に出来上がっていた規則を全日本剣道連盟が中心となって一本化し、完備されました。

 全日本剣道連盟の最初の試合・審判規則である昭和28年規則、続いて前述の通り完備された昭和35年規則について検討し、二刀はどのように規定され、また改定されたかについて考察してみたいと思います。


【昭和28年規則】

 剣道の復活に際してスポーツ的に発展させるという条件で占領軍から許された結果、全日本剣道連盟が昭和27年に結成され、剣道は体育スポーツの観念に立って考えられ、以前になくスポーツ化されました。この意味において過去の改正の中で大きな意味をもつ改正であったと言えるでしょう。連盟結成の最初の試合規程では二刀はどのように定められていたのだろうか。以下二刀に関するものを抜粋します。


 三、用具
   (1)竹刀は4ツ割の竹製とし下の条件に従う。
   1 長さは3尺9寸(約118糎)以内とし重量は120匁(450瓦)以上とする。
   2 二刀の場合、長い竹刀は3尺6寸(約109糎)迄として、重量は100匁(3 75瓦)以上とする。
     短い竹刀は2尺(約60糎)迄として重量は70匁(約263瓦)以上とする。但し重量は鍔を除く。

 七、撃突の部位
   (1)面部(正面、コメカミ部以上の右面、左面)
   (2)小手部(右小手)
      但し上段に対しては左小手も有効とする。
   (3)胴部(右胴、左胴)
   (4)突部(咽喉部)

 八、有効な撃突
   (1)充実した気勢、刃筋の正しい技、適法な姿勢とを以って加えた撃突。
   (2)左の場合は有効な撃突と認める。
       1 最も確実な片手の撃突
       2 二刀に於ては特に確実な撃突(以下略)


 この昭和28年規則は全日本剣道連盟発足後の最初の試合規程であり、当然剣道として戦後最初の試合規程でした。

 まず竹刀の規格ですが、一刀の場合、長さや重さに関しては特に学生と一般で区別することなく一本化されています。二刀においては、大刀、小刀それぞれの長さと重さが新たに規定され、この規定は昭和62年の改正まで続いています。

 この規定で小刀が60センチ(約2尺)と新たに規定されましたが、昭和18年の大日本武徳会剣道試合審判規定では2尺2寸以内としており、2寸短く規定されました。また昭和18年の規定では続けて小刀の柄は5寸以内、鍔下約4寸5分以内と決められていましたが、昭和28年の規則ではこの規定はありません。この理由について『剣道試合審判規則』では「柄5寸が一般化されたから」と記されています。

 また「最も確実な撃突」は、片手のみならず二刀についても規定されています。戦後初期のこの時代では戦前の流行の二刀が登場していたのでしょうか。


【昭和35年規則】

 学校や警察などの領域を超えて一本化された昭和35年における試合・審判規則には、二刀はどのように規定されていたのでしょうか。試合・審判規則の中の試合規則の用具の項目において、「竹刀」の長さ及び重さが条文化されています。以下この部分を抜粋します。


 用 具
   第4条 「竹刀」の長さおよび重さは第1表のとおりとする。「竹刀」の重さはつばを含まない。

第1表
中学校 高等学校 大学・一般
長さ  112cm以内
 (約3.7尺以内)
 115cm以内
 (約3.8尺)
 118cm以内
 (約3.9尺以内)
重さ   375〜450g
 (約100匁〜120匁)
  450〜485g
 (約120匁〜130匁)
  485 以上
 (約130匁以上)


   第5条 2本の「竹刀」を使用する場合には、一本は長さ110cm(約3.6尺)まで、重さは375g(100匁)以上、他の1本は長さ60cm(約2尺)まで、
       重さ265g(約70匁)以上とする。

 打突の部位
   第16条 面部(正面、右面、左面)
   第17条 小手部(右小手、ならびにつぎの場合の左小手)
        左小手前の中段の構え、上段の構え、八相の構え、脇構え、あげ小手、その他 中段の変形した構え。
   第18条 胴部(右胴、左胴)
   第19条 突部(咽喉)、ただし中学校は除く。

 有効な打突
   第20条 有効な打ちは、充実した気勢、適法な姿勢をもって「竹刀」の全長の3分の1(剣先より)弦の反対側で、突きは剣先で、打突の部位を
        それぞれ正確に打突したものとする。片手の打突は、とくに確実であること。(以下略)


 昭和28年規則では「二刀」と条文に記されていたが、昭和35年規則では「二刀」という名称が使用されておらず、「2本の『竹刀』を使用する」とされていること、またそれぞれの竹刀も大刀、小刀という言い方はされておらず、ここでは大刀を「1本」、小刀を「他の1本」と記しています。

 一刀の場合、竹刀の長さ、重さについては、この昭和35年規則によって初めて中学、高校、大学一般の3分野に分けて規定されました。二刀に関しては、大刀は中学生が使用する竹刀よりも2cm短く規定されていますが、重さは中学校の最低基準以上の375g以上の竹刀を使えばよいことになっており、上限は設けられていません。

 また、二刀の竹刀の規定は別に条文を設け(第5条)規定していますが、第4条の一刀の場合では中学校・高等学校・大学一般の3分野に分かれているのに対し、二刀の場合は一般のみが使用を許可され、大学以下の学校では明文化されておらず、実質禁止されています。これに関しては、この試合・審判規則の解説に「大学以下の学校では二本の竹刀を用いないが、これは基礎の練習段階において二本の竹刀を用いることは剣道の基本がおろそかになるからである」という説明がなされています。

 また、昭和28年規則で記述のあった「二刀に於ては特に確実な撃突」の文が今回削除された。これは二刀の数が減少したことが理由ではないかと推測されます。今回の条文では、二刀の場合も「片手の打突」に包括されたのです。


【昭和54年規則】

 昭和54年4月に施行された規則で、二刀に関係あるものは以下のとおりです。


 第二章 用 具

   第四条 竹刀の長さおよび重さは次表のとおりとする。
       竹刀の重さはつばをふくまない。


竹刀規格表
中学校 高等学校 大学・一般
長さ  112cm以内
 (約3.7尺以内)
 115cm以内
 (約3.8尺)
 118cm以内
 (約3.9尺以内)
重さ   375g以上
 (約100匁以上)
  450g以上
 (約120匁以上)
  500g以上
 (約133匁以上)


   第五条 二本の竹刀を使用する場合には、一本は長さ110cm(約3.6尺)まで、重さは375g(100匁)以上、
       他の一本は、長さ60cm(約2尺)まで、重さ265g(約70匁)以上とする。

 第五章 打 突

   第十六条 打突の部位は、次のとおりとする。
         (1)面部(正面・右面・左面)
         (2)小手部(右小手及び次の場合の左小手)
            左小手の中段の構え・上段の構え・八相の構え・脇構え・あげ小手・その他 中段の変形した構え。
         (3)胴部(右胴・左胴)
         (4)突部(咽喉、但し、上段および二刀に対しては胸部を含む)

   第十七条 有効打突は、充実した気勢・適法な姿勢をもって竹刀の打突部で打突部位を正確に打突したものとする。
         但し、片手の打突、追い込まれながらの打突はとくに確実でなければならない。(以下略)


 まず竹刀の基準に対しては、一刀では高等学校の場合の竹刀の長さに「約」の字が取れ、115cm以内となったこと、また重さに関しては中学校、高等学校では下限と上限が定まっていましたが、今回の改正では下限のみが定まっており、上限の規定が削除されたことが大きな変更点です。しかし、第5条における「二本の竹刀を使用する場合」の竹刀基準は従前のままです。

 一方、有効打突に関して、第16条には上段および二刀に対しては咽喉の他に胸部も有効打突が認められたことは大きな変更点です。この件に関して、「剣道は中段の構えが基礎であり、基礎が不十分であるのに試合に有利であるという理由で、上段からの片手打ちをするものが多くなった。剣道は中段で鍛練することが望ましい」という理由が「改正要点解説」の中でなされています。

 この規則改正前の昭和40年代前半は、千葉仁、川添哲夫などが中心となった上段全盛時代であったことが改正の背景にあることは否めません。全日本剣道選手権大会でも千葉は優勝3回、2位2回、川添は優勝2回、2位1回、3位1回、戸田忠男は昭和30年代も合わせると優勝2回、2位2回と戦績も素晴らしいものがあり、上段がブームとなったことにより、改正要点にもある通り試合に勝つために上段をとる者が増えたということです。

 しかし二刀がなぜ胸突きを有効とされるかという直接的な理由は改正要点の中には見られません。ただ実際の二刀はすべて片手打ちとなること、小刀を中段に、大刀を上段にふりかぶり構えることが剣道における二刀の構えであるため、上段の規則を類推適用したと考えられます。

 しかし、「改正要点解説」には「上段とは、上段をとってから下すまでのこととする」と記されており、もし二刀が両刀とも中段に構えた場合の胸突きはやはりこれも上段の類推適用をして無効となるのか、それとも有効打突となるのかが不明瞭です。仮に二刀が中段に構えた場合の胸突きが有効になるのであれば、ただ竹刀を2本持っているというだけで試合に有利と判断されることになり、試合規則を通じて試合における二刀流の排除をもくろんだと言っても過言ではないでしょう。

 全日本剣道選手権大会での二刀流選手は上段ブーム以前の昭和30年後半から40年前半であり、二刀流の選手が上位の成績を残したという記録はありません。結果的に当時の上段ブームを抑制することを念頭において作られたこの改正規則で、二刀もその巻添えをくった形になったと言えるでしょう。


【昭和62年規則】

 昭和54年に大きな規則改正が行われました、8年後の昭和62年には」再び大きな改正が行なわれました。以下、二刀と関連のある条文を抜粋します。


 第3章 用 具

   (竹刀の規格)
   第4条 竹刀の規格は次の通りとし長さは付属部品を含む完成品の全長であり、重さは鍔を含まない完成品の重量である。


竹 刀 規 格
性別 中学生
(相当年令の者も含む)
高校生 大学生・一般
長さ 男女
共通
  114センチメートル以内   117センチメートル以内   120センチメートル以内
重さ 男性   425グラム以上   470グラム以上
女性   400グラム以上   410グラム以上   420グラム以上


       ただし二刀の場合には、1本は長さ114センチメートル以内、重さは425グラム以上、他の1本は長さ62センチメートル以内、
       重さ360グラム以上とする。


 第7章 打 突

   (打突の部位)
   第16条 打突の部位は次の通りとする。
        1.面部(正面、こめかみ部以上の右面および左面)。面部は面布団部を意味し、面金部は含まない。
          ただし相手が面金部を上にした場合を除く。
        2.小手部(右小手および次の場合の左小手の筒部)。左手前の中段の構え、上段の構え、八相の構え、脇構え、二刀の構え、
          上げ小手、その他中段の変形した構えなどのとき。(上げ小手とは打突時を除き左拳が鳩尾より上がっている場合を言う)。
        3.胴部(右胴・左胴の胴革部)。
        4.突部(突き垂部、ただし上段および二刀の構えに対しては胴胸部を含む)。

   (有効打突)
   第17条 有効打突は充実した気勢、適法な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものとする。
        ただし、
        (1)片手の打突、追い込まれながらの打突はとくに確実でなければならない。(以下略)


 大きな改正点としては、竹刀規格が一刀、二刀ともに変化したことです。一刀においては竹刀の長さが中学生、高校生(相当年令の者も含む)、大学生・一般とも2cm長くなり、また重さは中学生は50g、高校生(相当年令の者も含む)は20g重い竹刀を使うことになりました。

 二刀においては、大刀は従来の110cm以内から114cm以内と4cm長い竹刀を、小刀は60cm以内から62cm以内と2cm長い竹刀を使用できるようになりました。重さの面では、大刀は375g以上から425g以上と改定し50g重くなり、小刀は265g以上から360g以上と95gも重い竹刀を使用することになりました。他の例から見ても2センチメートル従来より長くなっただけで95グラムも重くなることは極めて不自然ですが、なぜ小刀がこれほど重くなったのかについては明確な理由は説明されていません。この影響により、二刀で試合に出場するためにはこの規格に合わせて竹刀を作らなくてはなりませんが、特に小刀をこの基準通りに作ることは非常に困難なことでした。

 条文の構成も従来は第4条に一刀の竹刀規格を示し、二刀の竹刀規格は別に第5条によって示されていましたが、今回の改正では竹刀規格は第4条に一本化し、二刀の規格については但し書きで示されることになりました。また今回の規則改正で女性の竹刀規格が定められましたが、二刀については女性の規格は定められませんでした。

 打突の部位については、第16条に今回示されているものは以前の条文より詳細に記述されています。昭和54年規則と比較しての変更点は、二刀の構えに対する左小手の打突が小手部に明記されたことです。しかし従前の規則でも二刀に対しては「その他中段の変形した構え」に含まれ、左小手も有効となっていたので、実質的な変化は特にないものと言えるでしょう。

 また突部において、改正前は「胸部」となっていたものが今回は「胴胸部」と名称が変更になっていまうが、これも実質的には名称の変更のみで大きな変化はありません。第17条にある「片手の打突の確実性」の記述も従来と基本精神は同じでしょう。


各種大会における二刀選手

【全日本剣道選手権大会】

 全日本剣道連盟発足後の第1回全日本剣道選手権大会は、5月4,5日の両日、京都武徳殿において開催された全国大会と呼応して、昭和28年11月8日、東京の蔵前国技館において行なわれました。

 この試合方法は、従来の剣道界の習慣であった専門家、非専門家の区別を廃し、選手の資格は年齢、段位、称号などに一切の制限を設けないで、各府県から厳重な予選を経て代表者を出し(各都道府県代表選手の数は人口300万を基準とし、300万以下の府県は1名、600万以下の府県は2名、600万以上の府県は3名とした)選手権者を決定するという画期的な構想によったものでした。

 従来の大会の中でも今回のように選手の資格に何らの制限を設けず、専門家、非専門家の区別も撤廃して選手権試合を行ったということは、まさに日本剣道界はじまって以来最初のことで、全日本剣道連盟発足後の最大の大会であると言えるでしょう。

 この全日本剣道選手権大会に各都道府県代表選手として二刀で出場した選手が何人かいます。

  ◇谷口潔教士七段(鳥取県)
    第8回大会戦績(昭和35年11月27日)
       第1回戦 五段 谷口 潔(鳥取) ド −メメ七段 中村太郎(神奈川)

  ◇水野忠教士七段(宮城県)
    第9回大会戦績(昭和36年12月3日)
       第1回戦 六段 水野 忠(宮城) メ −   六段 松田勇吉(奈良)
       第2回戦 六段 水野 忠(宮城) ド −   五段 野口直吉(山形)
       第3回戦 六段 水野 忠(宮城)   − メ 五段 戸田忠男(滋賀)
    第11回大会戦績(昭和38年12月1日)
       第1回戦 六段 水野 忠(宮城) ド −   六段 宮近政久(鳥取)
       第2回戦 六段 水野 忠(宮城) ド −   七段 大浦芳彦(福岡)
       第3回戦 六段 水野 忠(宮城)   − ド 五段 戸田忠男(滋賀)

  ◇恵土孝吉錬士六段(愛知県)
    第15回大会戦績(昭和42年12月3日)
       第1回戦 六段 恵土孝吉(愛知) メ −   五段 鈴木実(北海道)
       第2回戦 六段 恵土孝吉(愛知) メ −   六段 野沢治雄(埼玉)
       第3回戦 六段 恵土孝吉(愛知)   − コ 五段 古沢里司(大分)

  ◇荒関富三郎教士七段(長野県)
    第17回大会戦績(昭和44年12月7日)
       第1回戦 七段 荒関富三郎(長野)  − ド 五段 矢野洋二(愛媛)

  ◇山名信行六段(徳島県)
    第55回大会戦績(平成19年11月3日)
       第1回戦 六段 山名信行(徳島)  コ −   七段 平尾 泰(東京)
       第2回戦 六段 山名信行(徳島)    − コ 四段 鹿野允成(山梨)



 まず谷口潔教士ですが、彼が二刀に転向した動機が、『白鷺の賦』に記されています。

 「荻窪の社宅に住んでいたが、自転車で行けば近いところに大義塾という道場があり、中村藤吉という先生が子どもを集めて教えていた。この道場で子どもの指導を手伝うようになったのだが、藤吉先生の長男が有名な中村太郎である。当時全日本選手権試合で二回優勝し日本一の名をほしいままにしていた。この日本一の剣士と手合わせしてみた。私もかなり自信を持っていたのだが、てんで歯がたたない。勝負をすると十本の中一本しかとれないし、得意の遠間からのさし面も全く通じない。そんな時のこと、子どもを相手に二刀で遊んでいたりしていたのだが、試みに二刀で日本一と対戦してみた。すると三本の中一本はとれる。はじめたばかりの二刀で日本一の剣士とほとんど対等に戦える。そこで二刀に転向した。」

 谷口教士は『剣窓』にも述べていますが、学生時代は一刀であったということです。社会人となり、上記のエピソードにより二刀に転向したわけですが、昭和35年に全日本選手権大会に出場できました。しかし対戦相手が中村七段(当時)と、運命的な巡り合わせとなってしまいました。この全日本選手権大会について谷口教士は『剣窓』で次のように述懐しています。

 「九州に二年居て鳥取県の米子に転勤し、中国五県大会で個人優勝した。昭和三十五年のことである。この年、全日本選手権大会に出場させて貰った。所がくじ運悪く中村太郎さんとの組み合わせであった。知った者同士では二刀に歩がない。まして太郎さんは日本一の剣士である。勝てるとは思いもしなかった。それでも最初に一本取ったが、闘争心が不足していて順当に負けてしまった。」


 次に水野忠教士ですが、全日本選手権大会には、昭和36年と昭和38年の2度出場を果たしています。いずれも緒戦、2回戦を突破し3回戦まで進んでいるが、この3回戦で2度とも上段の戸田忠男五段(当時)に敗れています。戸田教士は昭和37年と昭和39年に全日本選手権大会で優勝しており、まさに脂が乗り切っていた頃であると言えます。ちなみにのちの戸田教士は二刀をとるようになりますが、この頃の経験も影響しているのでしょうか。


 次に出場したのは恵土孝吉錬士で、昭和42年に二刀で出場しました。恵土錬士は昭和42年以前にも全日本選手権大会の出場経験があり、2位、3位などの戦績を残した強豪ですが、その時は中段でした。なぜこの時は中段ではなく二刀をとったかについては、『読売新聞』に次のような記事が掲載されています。「また速い動きで活躍を期待された恵土六段(愛知)は足を痛め、動きが鈍ったのをカバーするため右小刀、左大刀の二刀で登場したが、まだこなしきれず、三回戦で延長五回の接戦の末、古沢五段(大分)に敗れた。」

 そして昭和44年には、「武蔵会」の先代師範荒関富三郎教士が出場しました。この時荒関教士は51歳で、出場者の中でも特に高齢でした。『剣道日本』の中で、「運悪く矢野(洋二・愛媛)さんという、決勝まで行って千葉仁さんに負けた選手と緒戦であたってしまったんです」)と当時を述懐しています。

 荒関教士は、この後に、二刀が現代の竹刀剣道に対して如何に戦うべきかを体系化し、二天一流「武蔵会」を発足させました。

 そして、荒関教士以降30年以上にわたって二刀の剣士が出場していませんでした。理由は色々と考えられますが、出場年齢層である30歳前後は戦後生まれとなることから、戦前の二刀について知る者がなく、また学生も二刀による試合は禁止されていたこともあり、二刀を学ぶ機会が無きに等しい状態であったことが理由の一つとなるでしょう。

 しかし、平成19年の第55回全日本選手権大会で、徳島県代表の山名信行六段が二刀流で出場し、平尾泰(東京・警視庁)に対して延長24秒に小手を決めて勝利しました。2回戦では惜しくも敗れたものの、その戦いぶりは場内を沸かせました。


【全日本剣道選手権大会出場者以外の二刀選手】

 全日本剣道選手権大会は現在の剣道界で最も大規模な大会であることは前に述べたとおりですが、これ以降では選手権大会に出場しなかったものの二刀流として著名な剣道家を紹介します。いずれも全日本剣道演武大会(京都大会)における演武をはじめ、様々な場で二刀をとりつづけている剣道家です。

 まずは新井重雄教士八段です。新井教士は東京外国語学校(現東京外国語大学)時代に二刀流の稽古を始め、『平成・剣道読本』にも述べられているとおり、全国的な二刀流剣士となりました。新井教士が二刀をとるようになった動機は、『剣道範士堀田捨次郎先生をしのぶ』の中に、次のように述べられています。尚、引用中にある「先生」とは、堀田捨次郎先生を指します。

 「殊に先生は東京外国語学校剣道師範として長らく学生の指導にあたられ、我等同校剣道部卒業生一同が、あの先生の豪放な神技と烈しい剣風と、豪気磊落な御人柄が今尚我々の脳裡に強く印象づけられているのであります。(中略)私の如きは昭和三年外語に入学し、昭和七年卒業の在学四年の短い期間、先生の御指導を受けたけれども、中学で修得した構えを根本的に先生によって修整せられ、それに依って真の間合いの利を習得し、更に私にとって大きな出来事は、先生の御指図により二刀流の稽古を始めたことであります。当時先生は剣道教本を御執筆中で二刀流の御研究もなされて居られ、学校の道場で遅くまで私を相手に二刀の研究をなされたのであります。」

 そして当時の戦績について、『直心』には次のように記されています。「もともと基礎は一刀流で十分出来ている。その上天下の剣豪と『対』で鍛えた二刀の冴えは並ぶ者なく、早くも『外語の新井』の名は学生剣道界に響き渡った。昭和四年に開催された第一回全国学生剣道選手権大会に初出場し、惜しくも第二予選で敗退したが、次年第二回には準優勝(神宮)翌年三回にも連続準優勝(京都武徳殿)という輝かしい記録を樹立した。学制改革で、外語が変則的な四年制になったばかりの専門学校であるに対し余科二年を加えると六年制の私大四年生と堂々と渡り合った氏の技量は誠に立派である。早大の大将和田金次、慶応の小林等の諸氏は、当時学生剣道の王者であったが、之等に一歩も引けはとらなかった。」

 このような学生時代を過ごし、社会人となってからも剣道を続け、八段に昇段することとなりますが、『直心』では次のように記されています。「新井氏の剣道は、その剣歴から、人格才能から、又国際剣道振興に尽した功績から、立派にプロの資格を完備し、剣技に於て誰にも劣るものではない。然しながら、氏自身も御承知あったように、二刀であるが為、率直に大方の認めるところとならず、昇段が遅れた。昭和五十一年五月の八段審査に三八二名の受験者中、二十五名の昇段者の一人となった時は、その中の最高令者となっていた。(六十八才)如何なる偏見も、もう之れ以上氏の存在を黙殺することが出来なかったのである。」

 剣道八段審査はあらゆる審査の中でも最難関の審査の一つであると言っても過言ではなく、その中で偏見の強い二刀で受審し、合格することはほとんど成し難いことです。現存する二刀流剣士で、八段に合格したのは熊本の八木夫兵衛範士、東京の戸田忠雄教士の二人だけです。この事実からも、二刀流で八段審査に合格することがいかに難しいかを理解することが出来るでしょう。

 また、全日本選手権で2度上段をとって優勝した戸田忠男教士も50代になってから二刀をとり、平成6年の第15回中倉旗争奪剣道選手権大会では55歳という高齢にもかかわらず3位に入賞、平成10年に八段を取得し、翌年1月31日に行なわれた沖縄県立武道館落成記念全国剣道八段大会で2位などの戦績を残しています。

 この他にも千葉の押本孝一教士七段は二刀流をとり、平成8年に行われた第18回全日本高齢者武道大会の剣道の部寿組(80才以上)で準優勝など活躍しました。


 いずれもスピードやパワーなど年齢を重ねるごとに衰えてくる部分を長年の稽古の賜物である技術や精神力でカバーし、剣道の本質に適っている好例です。


※このページの掲載写真の一部は、壮神社並びにスキージャーナル株式会社「剣道日本」よりご提供いただきました。

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